文春文庫に入った、野上照代著『天気待ち 監督・黒澤明とともに』を読んだ。著者はスクリプター(記録係)として黒澤監督の多くの作品に参加。題名は、ロケーションで監督やキャメラマンのイメージ通りの天候になるのを待つことから採られている。黒澤作品の撮影における「天気待ち」は、『姿三四郎』など有名なエピソードに事欠かないが、考えてみれば現代の映画制作では、天候などCGでちょいちょいとやっつけてしまえるので、こういうコトバが死語になっていくのかもしれない。
ともあれ、この本では映画制作の裏話が、著者のじつに洒脱な語り口で綴られており、一気に通読した。オススメの一冊である。当通信では、やはり音楽に関わるエピソードを若干紹介しておきたい。
黒澤作品における音楽担当者として、この書では主に三人の作曲家が紹介されている。『七人の侍』の早坂文雄、最多登場の佐藤勝、そして『どですかでん』『乱』の武満徹だ。
黒澤監督は撮影中の作品につける音楽のイメージを、クラシックの作品等から選んでいたらしい。『影武者』の予告編につけられていた『軽騎兵』序曲等も監督の選曲だという(ちなみに、黒澤作品とはぜんぜん関係なく、かつて『さよならジュピター』という映画の予告編にシューベルトの『ザ・グレート』終楽章があてられていて、もの凄くカッコ良かったのを覚えている)。本書では黒澤中期の傑作『赤ひげ』に関する裏話が披露される。
心を病んだ少女が、自分を治療してくれた医師に淡い恋心を抱き、過労で倒れた医師を懸命に看病する場面がある。黒澤はここにハイドンの『驚愕』第二楽章をあてた。そして佐藤勝にこういうのだ。
「いいだろ、ドンピシャだろ。佐藤もこれくらいの、書いてよ」
「だったら、このままハイドンをお使いになったらいかがですか」
佐藤さんの笑顔はこわばっていた。
「でもさあ、お客はこのハイドンに、それぞれ違ったイメージを持ってるだろう。それは邪魔するよね。だからさ、ハイドンよりいいのを書いてよ」と、黒澤さんは無邪気なものである。
この結果は、ぜひ映画をご覧戴きたい。佐藤勝はこの後『影武者』でも音楽担当を予定しながら、途中降板となる。このとき代打に立った池辺晋一郎のエピソードも少し出てくる。
武満徹の映画好きはつとに知られるが、黒澤との協働は少ない。ここでは『乱』の制作での出来事を。
黒澤監督は武満の作品を高く評価していたらしく、『乱』でもぜひに、と迎えている。しかし例によって、自らのイメージにこだわりは強く、しかしそれを直接、面と向かって指示することはできなかったらしい。そこで監督はスクリプターに、作曲家に対する意見をメモにして、何度か届けさせたのだという。
ある朝。私が黒澤さんとレストランで朝食をとっていたら、武満さんがマネジャーと来て、私達のテーブルに腰を下ろした。
武満さんはタダならぬ雰囲気だった。あのオデコの下の眼は炯々として刺すようである。
「黒澤さん、僕のどこが違うんですか。悪いなら悪いでハッキリおっしゃって下さい。僕はもう、この仕事を止めますから」
いきなり目ツブシである。
不意をくらった黒澤さんが、
「いや、別に、悪いとは言ってないよ」
とか、言われた気がするが、後は憶えていない。これは奇襲をかけた武満さんの勝ちだった。
黒澤明と武満徹の一騎打ち、なかなか見物である。
コメント
「乱」製作時の黒澤と武満の確執はつとに有名な話ですね。私は武満さんがわからの文献しか見たことがありませんが。
「明日ハ晴カナ,曇りカナ」という唄はこのときの心境から武満さんが即興的に作り,撮影スタッフに大受けしたということですね。
ご紹介のエピソードもじつは『天気待ち』に出てくるんです。さらに、『乱』の編集時に、武満のつけた音楽の低音を増強するために、監督がエンジニアにテープの再生スピードを遅くして、キーを下げるように指示したことから、作曲家がキレるという話もありました。
まあ、無茶苦茶をするもんですが。